氷河期世代の女性にあった「キャリア洗脳」
私はある種の洗脳にかかっていたと思う。「女性はすぐに結婚してはもったいない。仕事をしてある程度のキャリアを形成すべきだ。」というものだ。そして、その結果が今の自分と自分を取り巻く環境に現れている。このことは、直接誰かにこのように言われたことは一度もなかった。むしろ、このことは気づかないくらい静かに、当たり前のように私の周りや私自身の思想の中にあったのだ。「結婚して、子どもを産みたい!」「でも、まだ早い!若すぎる!」これは、私の本能的な「やりたいこと」と「やるべきこと」の葛藤だったと思う。
30代に入って、「気のせいかな?」程度の気づきが日々起こってくる。「あれ?疲れが回復していないぞ?」「何かが変わってしまって美しさが減ってしまった…」このように美と体力の衰えを自ら感じながら、それ以上に周囲が私に向ける視線をも残念な違和感ばかりになっていった。私を注目する人が減っている、好意的な視線がなくなってしまった。会社の中には既婚者の女性も多く、その人たちを横目に「何かさみしい・・・」「一人暮らしにも慣れてきたけれど、飽きてもきた…」「子どもを産んで生き生きしている母親である女性がうらやましい…」そんな気持ちをまぎれもなくまっすぐに感じている自分がいた。
「仕事、結婚、芸術、付き合い」
冷静な自分が、年齢が意味するのはだんだんとこれが悪化することなのだと予測すると、この自分への残念な気づきが一気に焦りへと変わっていった。「効率化しなければ、人生をうまく運営することはできない!」そんな考えが浮かんできた。それからというもの、毎日の日課のように「やりたいこと…やるべきこと…」と唱えるようになっていた。これが私の人生における「ライクワークバランス」という概念を使うようになった経緯だろうと思う。考えてみれば、「若い、若い。」と言われてちやほやされる時間というのは本当に短かかった。そして、それ以外の「もう若くはない、いい歳である。」という重苦しいイメージは割と長く付き合うことになるかもしれないと悟った瞬間でもあった。

私たちの世代は、「女性はすぐに結婚してはもったいない。仕事をしてある程度のキャリアを形成すべきだ。」という洗脳のワナにかかっていたのだ。これに気づいたときに、「しまった!」と正直思ったのだった。だれかにそれを言おうと思ってもなかなか伝えられないもどかしさ…「でも、これは多くの人に伝えたい!」なんて思っているうちにまた、時間が数年単位で経過し、また新しい時代のトレンドと多様性はありつつも、何通りかの洗脳のようなものが新たにできつつあるのも感じる今日この頃なのである。
私は今一児の母、なんとか「やるべきこと」であった結婚というものをなんとかかんとか大急ぎでしてしまって、これは「どうしてもやりたかった」高齢出産と子育てをして、気づけば人生のゴールとまではいかなくとも、還暦までの見通しがつく年齢にもなっていた。子育てに明け暮れていれば、必死になればなるほど、あっという間に10年という歳月が矢のごとく過ぎてしまうものだからだ。
そして10年…どう変わった?
子どもは10歳にもなれば自分でなんでもできるようになって、急に手がかからなくなってくる。そして、もう一度自分と向き合う時間が増えてきた。ふと、「もっと早く結婚子育てするべきではなかったか?」ととにかく心の奥底から訴えるように感じている自分がいるのだった。あれは何だったのか?こんなにも時間も体力もなくなっていくのなら、余裕のあった20代のあの頃すべきだったのは有り余る若さを武器にした婚活だったのではなかろうか?もう遅いといえばそれまでだが、私はどこかあきらめが悪かった。
とにかく、社会は時代とともに変化するわけだが、私が大学を卒業した22歳~23歳の頃、結婚よりも仕事をすることが常識とされていた。その証拠に大学4年生になるかならないかの頃から、真っ黒のリクルートスーツを着て、氷河期真っ只中ではあったものの否応なく就職活動に出かけるというムードだったのだ。今でこそ、男女平等が当たり前になってきているが、私たち氷河期世代はまだまだ男尊女卑が残っている社会に放り込まれたのだから、そういう雰囲気に合わせる必要がもちろんあった。
でも、はっきり子どもがほしい若い人達に言いたい。自分にもはっきりさせたい。社会に出てから結婚相手を探すということは至難の業であること、学生のうちに見つけて、チャンスがあれば早く結婚子育てした方がよいと。これは本能的な「子孫を残したい」というものに基づく気持ちだと思う。これをもし無視していれば、年をとってから「自分に子どもがいたらどんな人生だっただろうか?」「自分の子どもってどんなふうだったのだろうか?」という気持ちから街に出るたびに逃れられないということを聞く。
「ライクワークバランス」は生活のカギ

「ライクワークバランス」を変えること、生活の行動の割合を変えていくことが将来の自分の姿を変えていく。これは直感的に昔の自分は「正しい!」とつかみ取った感覚だった。人生は取り返しがつかないと言われれば、それは現実としては全く持ってその通りではある。しかしながら、歳をとってある程度成功と失敗を受け止めた今の私にできることがあるとすれば、時間を取り返すべくできることをすべてしたい!という思いにたどり着くのであった。
洗脳と潜在意識の書き換えの違いとは?
世の中の思想のようなものや自分の体験が潜在意識に刷り込まれていて、人生を形作る出来事を引き寄せているというような考え方も世の中にだいぶ浸透してきた感がある。マイナスのイメージの「洗脳」という言葉が怖いのと同じく、「潜在意識」というのも胡散臭いと思う方もまだまだ多いかもしれないが、どうやら本当のことのようである。
私は割と感覚的にずっと「自分の気持ち」と「実際の行動とのズレはどうして生まれるのか?」と常々思っていた。だからおそらく「潜在意識」が関係しているということだけは確かだろうことは感覚的に理解していたように思う。しかし、どうしてもそれが何で、どうしたら変えられるのかまではわからなかった。そして今も割と不都合な出来事はまだまだ引き寄せている最中だとも感じる。
社会の中に好むと好まざるとに関わらずに存在する思想に知らずに染まってしまうのが「洗脳」だとするならば、「こんな人生にしたい」「こんな自分になりたい」というピンポイントの狙いを実際に形作るために「洗脳意識を染めていく」ことができるのは、日々の行動の積み重ねしかないだろう。
「気持ち」は反射的に起こるものであり、「感じたくない」と思ってみても「感じてしまう」のが心であるならば、それは変えようがない。しかし、行動はすぐにでも起こすことができる。それが「本当に自分が好きなことか?」「本当に自分がしたいことか?」すべての本質はここにあって、これが一つでもいいから見つけられたら幸せな時間を過ごすことができるのだ。
新時代の「ライクワークバランス」の在り方
多様性の時代にあって、多種多様なツールや助けてくれる媒体もあって、逆に自分がグラグラしている…意外と現実なのである。家庭や保育園や幼稚園から始まって、小・中学校、高校や大学でさえもずっと続いているスタイルは「指示されたことをやる」ということ。そして、この「指示通りにする」ことが求められ、「自分で好きなことをする」ことは制限されることが圧倒的に多いのではないだろうか。少なくとも私はそれしか知らない。「なんで?」と疑問に思うことですら許されないような風潮の中で生きてきたのだ。それが、今さら「好きなことをしたらいい」なんてどうしたらいいのかわからなくなってしまうことにつながっているのではないだろうか。

